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【動画】負げねど飯舘!愛澤卓見さんインタビュー



2012年11月23日、福島県相馬郡飯舘村を訪れた。
飯舘村は、2011年3月11日の震災後に起きた、東京電力福島第一原発事故による放射性物質の被害を大きく受けた。
その飯舘村で、いち早く住民団体を立ち上げ、住民の健康被害調査を求めて活動を行っている「愛する飯舘村を還せプロジェクト 負げねど飯舘!」の常任理事 愛澤卓見さんの自宅でお話を伺った。

飯舘村は2011年4月22日、村全域が放射線量年間積算20ミリシーベルトに達する怖れがあるとする「計画的避難区域」(1カ月以内を目安として住民全員の避難が指示される区域)に指定され、5月15日に避難開始となった。現在は「避難指示解除準備区域(年間20ミリシーベルト以下) - 八木沢・芦原・大倉・佐須・二枚橋・須萱」、「居住制限区域(年間20ミリシーベルト超・50ミリシーベルト以下) - 上記各地区と長泥以外の全域」、「帰還困難区域(年間50ミリシーベルト超) - 長泥」の3区域に分かれている。

現在も村民のほぼ全員が村外に避難していて、避難先は、仮設住宅は福島市、伊達市、国見町、南相馬市(http://twitpic.com/be17s7)。そのほか借り上げ住宅等に住む村民がいる。

愛澤さんは、2011年6月から福島市内の借り上げ住宅に家族3人で避難している。週に1回は帰ってこようと思っているが、福島市から飯舘村は車で約1時間。忙しくてなかなか帰れない。帰ってくると洗濯機を回し、洗濯物を縁側に干す。飯舘の家には井戸が2つある。福島市の借り上げ住宅では家賃補助はあるが、水道代補助はない。水道代は飯舘では一切かかっていなかったから、家賃同様に補助があると思った。しかし補助はなかった。
「なんか変な話だなあと思うんですけどね、そんなもんでしょうかね。」
そう言って、愛澤さんは洗濯機を回すと、空のマグカップをこたつの上に置いた。
「お持ちの飲み物、入れてください。暖めてきますから。私は、ここの水でお茶を飲みますが、やめておいたほうがいいでしょう。」
私はペットボトル入りのお茶をカップに注いだ。ここから先はお店がありませんから、と川俣町のコンビニで買っておくよう促されたお茶と軽食をとりながら話をきいた。

時折「ピピピ」という音がするのは、ガイガーカウンターの警告音だ。愛澤さん宅の居間の放射線量は2012年11月23日現在でも0.8~1.0マイクロシーベルト/時だった。


震災・原発事故後の生活―今、飯舘に戻って1000万円規模のリフォームをすべきか

愛澤さんは、震災前まで父と姉の家族3人で暮らしていた。地震直後、福島市に下宿している高校生の甥の家の水道が止まり、姉は真っ先に甥を飯舘に連れてきた。そこへ発電所が爆発したという報道。甥の携帯には、友達から「お前だけ逃げろ」という電話がかかってくる。戸締りをして家にこもり、テレビの報道を見続ける。トラウマになったかもしれない。

数日後、愛澤さんは村内の放射線量を計測し、ひどい汚染状況に気づき、健康被害調査を求めるために住民団体を立ち上げた。住民集会の企画・実施など、奔走しながら6月に借り上げ住宅に避難した。ペットの犬を連れて行くため庭付き1戸建を探すのに苦労した。

家族の中では父が最も飯舘の自宅に帰ってきている。人のいない村の見守り隊として活動しているが、寒いので泊まることはできない。給湯は薪を使っていたので、今は使えずお湯が出ない。薪を燃やすとセシウム入りの灰が舞ってしまう。数年後に戻ってきて暮らすとしても、もう薪を燃やすことはできないだろう。築30年の家はそろそろリフォーム時期と思っていた。給湯はガスか石油にしなければいけない。総工事費は1000万円にもなるだろう。

今、飯舘に戻り1000万円の投資をするかどうか。人が住まない家の老朽化は早い。借り上げ住宅は家賃補助で無料だが、それがいつまで続くかは、わからない。


復興とコミュニティ―農作物・自然の恵みが失われた村に村民が戻り復興しても、同じコミュニティは戻らない

飯舘は、貧しい村でした。大きな家が多いのは、土地も安かったからです。
しかし貧乏でも、今考えると豊かに暮らしていました。それは、自然の恵みがあったからでしょう。
コミュニティとは何か。飯舘に独自のコミュニティがあったとしたら、そのコミュニティ内で通用する言語や通貨は、農作物や自然の恵みだったのでしょう。
それが失われてしまったので、たとえ90%以上の村民が帰ってきたとしても、コミュニティが再生できるかは、あやしいと思います。違うコミュニティになってしまうと思います。
過疎化も進んでいたので、どちらにしてもコミュニティが変質していく状況の中にあったわけですが、ずいぶん以前とは違うコミュニティになるでしょう。

村は復興するかと聞かれたら、すると思います。でも、復興した村のメンバーがどうなっているかは、全然想像がつきません。
貧乏な村ですから、何か強力なインセンティブを使って帰村を促せば、村民は戻ってくる気がします。それがいいことかどうか、わかりませんけどね。



子どもたちのために動きたい―「国と喧嘩したって勝てないぞ」って言うジジイになるくらいなら


長く学校事務職員をしてきました。平成11年に地元飯舘の中学校に戻ってきたとき、3年生だったメンバーは来年29歳になります。たとえば20年後、私が60歳になったとき、40歳くらいになったメンバーが裁判をやっていて、今だって裁判がうまくいくとは思えないですが・・・
それを見ていられないもんなぁ。

その裁判の状況をみて、「国を相手に喧嘩したって勝てないぞ」って言うようなジジイになるくらいなら、死んだほうがいいって思います。そんな自分の20年後を許容できません。僕がそれを許容できないんだから仕方ない。

あとは、退職する前、60歳までの現役時代が勝負だと思っています。リタイアした世代の言動を見てきましたが、リタイヤして院政を敷こうとする人は山ほどいますが、自分で動かない人が非常時に役に立たないこともある。60過ぎて今の60過ぎみたいな動きをするくらいなら、今、動きます。


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人気のない村、除染した土の入った土袋が並ぶ畑、自然の恵みに溢れていた村も、雪の季節がくる。雪が降ると、福島市から車で約1時間の飯舘村への距離は一層遠く感じるだろう。
首都圏の電力供給のために犠牲になってしまった、復興の兆しの見えない村の存在を忘れたくない。
by channelp | 2012-12-09 17:29 | BLOG
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